みかん山大師再生について

【みかん山再生について】

串聞市本代の西に位置する法泉寺は、みかん山犬師と慕われ、昭和三十年頃までは縁目(旧三月二十一目)には境内が多くの参詣者で埋まり、出店や興行などが開催され多くの市民に愛されていました。

しかし、その後時代の流れと共に荒れ果て、参詣者や八十八ケ所を訪れる市民の方もめっきり少なくなっています。

そこで、私たちは「みかん山にぎわい会」を結成し、もう一度みかん山ににぎわいを取り戻そうと草刈り、樹本の剪定、八十八ケ所の整備などに取り組んでいます。会員数は十数名の状況であります。

今後は、四季折々の草花の植栽、駐車場の整備などを行い、児童・生徒の遠足や市民の憩いの場、さらには旧三月二十一目のイペント開催など、みかん山を魅力ある市民公園に整備していきたいと思っております。

みかん山大師をまずは市民の皆様が再認識されることを目的に、写真パネルを約50枚作成し、市民病院、市役所、老人施設などで展示を行いました。各所で私たちの活動を皆さんに知っていただく場を提供していただいたことに深く感謝するとともに、みかん山と新たに出会うことによって皆さんの心が少しでも癒されれば幸いです。

 

【みかん山の歴史】

青松山法泉寺は福島今町の富豪神戸四郎が、明治30年にこの地を拓いて段々畑を造成、柑橘三千本を植栽、更に弘法大師を信仰するところから、山中に八十八体のお地蔵さんや観音様を又麓には堂宇を建てて祀ったのが始まりで当初は曹洞宗福島説教所であったが、大正11年高野山大師教会福島支部、昭和20年天台宗法泉寺となり現在に至っている。(飫肥常楽院沿革より)

かつてここは「みかん山お御堂寺」と呼ばれていたが、長い歳月に朽ちて雨漏りがしていたのを見かね、信者11人が発起して御詠歌を歌い、鐘を鴫らして家々の前に立ち寄付を仰ぐ行脚を行い鹿児島県の内之浦辺りまで赴いたそうである。この寄付をもとに、大和屋から柱になる木材を寄付してもらってお寺を建直した。これを機会に往職の柳田耕雲氏が本山に申請して「青松山法泉寺」という寺名を授かりました。

昭和30年代頃までは縁日(旧3月21目)には境内が多くの参詣者で埋まり、出店や興業などが開催されるほど賑わっていました。ここ40年ほどは境内の一部のみ清掃してどうにか年一回だけ大師祭りを開催していましたが、昔の面影は全くない状況でした。

 

【青松山法泉寺(せいしょうざんほうせんじ)(通称みかん山)】

福島今町の神戸四郎が、この地を拓いて柑橘三千本を植栽、更に弘法大師を信仰するところから、八十八 か所や堂宇を建てて祀ったのが初まりで当初は曹洞宗福島説教所であったが、大正十一年十月十三日 「高野山大師教会福島支部」、昭和二十年天台宗法泉寺となり現在に至っている。(飫肥『常楽院沿革』より)

 

注目すべき歴史上の人物との関わり!

【神戸家と小村家の関係】  県出身の新聞人 故黒木勇吉の著書『小村寿太郎伝』には、小村寿太郎が公使•外相時代に故山に帰休するや必ず神戸家を訪れたことを写真入りで書いている。直接には、本家の政次が寿太郎の姉ワカを後妻に迎えたことから始まるが、神戸家の諸家が飫肥の素封家と婚姻関係を結んだ事例は神戸家系図考(その2)でもしばしば見られる。殊に飫肥では、寿太郎•ワカの母ウメは川添弥太郎の妹であり、川添家は橋口善吉(部分林及び殖産会の創設者と云われている)の娘喜美子を末子純蔵の妻(神戸ナヲの母)に迎えている。  後年、神戸家の驥三郎が幼児里子にやられていた所も飫肥板敷在の橋口家の乳母の家であったことから、神戸家として初めての洋行者•驥三郎が橋口信助(善吉の末子で日本最初の洋式建築業アメリカ屋の創設者で宮崎県立病院の建築者)とアメリカで交流があったことが推察される。

【神戸家の紋章について】  神戸家の紋章は『丸の木瓜(もっこ)』である。古来から伝わっている日本の紋章は、この木瓜系統の紋章が一番多いと言われていて約24%を占めている。特に武家においてこれを用いるものが多く、勿論「織田家」の紋章も『木瓜』である。  日本で木瓜系統の紋章が多い所以は、子孫繁栄を希求する願いを表すという。物の本には、その意味でこの紋は「女性そのもの」を模様化したものであると書いている。

【神戸本家の潟町移転について】  神戸政次が潟の埋立地に新居を構えて移ったのは、明治21?23年であるから、その子弟3人即ち長男政一•次男驥三郎(小新宅の神戸四郎•アサの養子となる)•三男政七はいずれも現在の上ヱ町本家で生まれたのである。  この移転の日時は、「向かい座敷」の雨戸に、昔は墨痕鮮やかに記されていた記憶があるので、文中この日時を掲出している次第であるが現在は打ち続く台風被害による修繕•取替等のため見当たらないのは残念である。後日のため敢えて一節を設け小述したい次第である。

伝聞によれば、久助大人は小柄であったが、『膽甕の如し』と云われた豪傑であった。明治9年81歳の高齢で死んだというが、晩年次のような逸話がある。  明治7年、西郷隆盛征韓論に破れるや、故山に帰り私学校の生徒とその日を友としていた。明治政府の要人達は虎を野に放つものとしてその後の彼の動静を気にし、就中、大久保利道は腹臣、長谷場純孝(当時警察庁巡査)を西下させた。この長谷場純孝を本屋表客間(8畳)に匿い便宜を図ったのが久助大人である。しかし、西南戦争勃発直前に長谷場の挙動が西郷方に察知されるや、暗夜密かに小船で上の浜から外の浦港まで逃してやったという。  この長谷場純孝は、後に帝国議会衆議院の初代副議長•文部大臣となっており、時を同じくして貴族院議員であった政次の口からもしばしば彼の名前が聞かれたというから、上記の因縁もこれあり、彼は田舎議員政次の政治指南番だったのではなかろうか。

【串間郷神戸家の由来】  神戸家が上代伊勢大神宮の貢物を司る所謂「神戸」であった事は否定できない。この神戸(しんこ)が後に伊勢の豪族神戸氏(かんべ)となったのであるが、織田信長戦国諸雄を平らげて上京するや、京都近辺の一向宗徒征伐に取りかかった。その最大の強敵が伊勢長島の一向宗徒である。その背後には豪族神戸氏が控えていたので、遂に信長の伊勢戦争は神戸氏相手に本格化したが、さしもの雄将滝川一益をしてもこれを平定することが出来なかった。そこで一策を案じ三男信孝をして神戸氏と政略結婚をさせ、一応この争いに終止符を打ったのである。われらが神戸信孝を祖とする所以もここにある。  天正10年(1582)6月 織田信長本能寺において明智光秀に殺害されるので、三男神戸信孝は羽柴秀吉と共に山崎にて光秀を破り、光秀は土民に殺される。(本能寺の変・山崎の戦)。天正11年(1583)4月 信孝(岐阜城主)柴田勝家と結んで秀吉に対して兵を起こしたが破れ5月尾張内海で自殺する。(享年26歳)  当時徳川家康と共に天下の動向を伺っていた島津義弘は、後日を期してか神戸信孝の子孫(?)神戸氏を奉じて根拠地九州に逃れる。これから、秀吉の九州征伐が天正14年(1586)7月始まる。  秀吉は天正15年(1587)3月大阪を出発し、薩摩の川内に進むと、義弘の兄義久は5月秀吉に降った。これらの九州地区の戦いで、筑前秋月藩は島津氏の尖兵的存在であった。この終戦処理で当然神戸氏の処分が問題となったはずと思うが、その史実は明らかでない。しかし、次の推理は成立しないだろうか?  島津氏はその尖兵として奮戦した秋月氏に所領安堵させる責任があり、遙々奉じてきた神戸氏を今更見捨てる訳にもいかない。そこで、自己の保有する佐土原地方に近接する高鍋地方を秋月氏に与え、かつ将来神戸氏を秀吉から匿うための扶持料として、串間郷をも秋月氏に与えたのである。串間六郷が伊東飫肥藩の所領を飛び越えて飛領地として存在したのも、かかる因縁に基づくものと思う。  なお、この九州征伐では、秀吉軍の武将加藤清正は中央道を南進し、和睦成立時には既に熊本を制圧して、島津氏の居城鹿児島を目前にしていたので、勇将島津義弘も秀吉の前に頭を下げざるを得なかった。後年、朝鮮征伐で島津義弘が秀吉死去の後で兵を引き揚げる際、日本最殿軍を引き受け、かの有名な泗川の戦で獅子奮迅の働きをしたのは、この九州征伐の秀吉の戦後処理(島津氏の所領安堵、秋月氏・神戸氏の処遇についての秀吉の黙認)に大いに恩義を感じていたのではなかろうか?  ただ、興味本位にみて残念なことは、島津氏の智勇兼備・文武両道の達人 新納武蔵守正弘(筝曲は新羅三郎義光以来の名手と言われている)と加藤清正の一騎打ちが、賤ヶ嶽の七本槍にも勝る勇壮な活劇として史実に加えられる機会を失ったことである。

【神戸家の家系図の存在について】  神戸家に何故正統な系図がないのか。何処かにあるのではないか。これは誰しも疑念を抱くところである。しかし、私は既に過去に亡失していると即断する。その理由は次に述べるエピソードと史的考察による。  明治23年(1890)帝国議会が創設されるや、本家の当主政次は多額納税議員として、貴族院議員に勅選された。初代の宮崎県選出の貴族院議員である。(厳密に言えば延岡市出身の小田氏死亡による補欠で2代目である。)この時、上京する際、政次は次弟久郎を同行、帰途伊勢神戸村に立ち寄り、系図捜しをしたが、神戸縁故者が持ち合わせているもので、本物らしいものは何も見当たらず、伊勢現存中の神戸一族と串間郷の神戸一族と、どちらが本家であるかの論争となり、久郎曰わく「秀吉の足下の伊勢で生き永らえた者は小物に過ぎず、秀吉よりより遠く逃れて生き永らえた者こそ本当の大物である。」と一喝して帰途につき、憂さ晴らしにその時『青井岳の山』を買ったという伝聞がある。  以上の話は非常に面白いがその真否はともかく、系図がないことは事実でありそうだ。何しろ島津氏に従い兵馬倥偬の間を遙々九州まで落ち延びた神戸氏にとって系図など無用の長物だったかもしれない。

明治39年6月20日、時の富豪神戸四郎氏が串間市西方に広大な(1,103坪)敷地を寄進し、本堂庫裡を新築、吉田貫宗師(かんしょうし)を住持として迎え、参道に池を掘り、石積みの丸橋を造立、後方の山を寄進し、88ヵ所の石像を安置、墓地約8畝と供養田とし南方に約2段歩の畑を寄進、旧3月21日の縁日には、境内は15,000人から20,000人の参詣者で埋まり、出店80軒興業物迄開催される程、大正から昭和初期迄は盛大を極めた。 現代では神戸氏の没落により昔日の賑わいはなくなったが、少なくとも終戦迄は縁日には今町地区等では仕事を休み弁当持参で参詣し盛大であった。

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